大正12年(1923年)の関東大震災は従来の服装に一大変化を与え洋服が著しく進出しました。昭和10年(1935年)には、ジャカードを装置した力織機は9,820台、ドビーを装置した准紋織機は、1,128台で総力織機の58%となり、桐生織物は意匠柄合、組織の複雑な紋織物に変化していきました。そして原料は主として生糸を使用したが漸次廉価の人絹糸を使用するようになっていった。当時輸出織物として、満・関・支(満州・関東州・中国)印度および朝鮮、台湾向けが主であった。しかしながら、満州事変、上海事変、さらに大東亜戦争(昭和16年~20年・1939年~1945年)となり、国家統制が日増しに強化されていった。織機を屑鉄化して供出し、建坪の大きい工場は軍需工場へと転換されたのでした。桐生の織物業は壊滅状態で終戦を迎えたのであります。それでも、桐生はいち早く織物を手がけるようになり、半木製織機という織機でガチャガチャと織りはじめました。その時のレーヨンマフラーという輸出向けの商品が戦後復興に大きな貢献をいたしました。あっという間に桐生は「織物の街・桐生」として復活いたします。
そして生活文化様式も変化し、国内向け婦人服地を研究開発し一つの柱となります。繊維産業はファッション産業として人々の注目を集めることとなり、桐生産地織物業も伝統的な技術を継承している帯・着尺や服飾工芸品などの和装関連商品と輸出織物・婦人服地・インテリア資材などの洋装の商品とに分かれてまいりました。そして、桐生織物業はファッション産業の素材発信基地として、いち早く海外輸出見本市、国内見本市、内地求評会などの各種展示会を国内外で催し好評を博しております。それは、殆どがジャカードを主に活用した強撚糸使いの織物で、使用糸も生糸などの天然繊維から化学繊維まで、さまざまな糸を使用しております。やがて、コンピューターの発達とともに、ジャカードのCADコンピューター・デザインシステムのソフト開発に着手します。両毛電算システムという会社に画像読みとり装置を入れて、コンピューター・デザインソフトを帯・着尺・インテリア関係・服地・輸出織物さらにレースにも使えるというような総合型を基本方針とし完成し普及させております。
桐生産地はこうした歴史的経過をたどりながら、すばらしい伝統と匠な技を受け継いで高品質、高規格な織物を生産する産地として美しい織物の製造に取り組んでおります。