切々とうったえた恋は姫の心を動かし、ときの朝廷の目にとまり、許されてかたく結ばれ、夫役満了となり白瀧姫をかれの故郷(現桐生市川内町)に連れて帰り、白瀧姫は里人に養蚕、機織の道を伝えたといわれ、朝廷のご奨励と白瀧姫によって桐生織物の発達の曙光をみるに至ったとされている。 さて織物産地をみるときに都市型の織物産地と農村で産地形成した農村型の産地があります。都市型の織物産地は西陣が代表するように都に職人が集まり、そこに織物が栄えたところ、そして外国の技術が入りやすく、職人が来やすく大陸に近いところの九州・博多であります。もう一つは大名もなく交通の要所でもない農村で発達した桐生産地であります。農村型の産地として他に米沢、結城、伊勢崎、越後、大島などがあります。
桐生は足尾山麓を源とする渡良瀬川と、その支流の桐生川との流域に囲まれている地域で、耕地面積は少なく土地もやせておりましたので養蚕、機織りなどを副業として生活をしておりました。その渡良瀬川の左岸が足利地方で、右岸が新田地方になります。室町時代は両毛地区の雄である足利幕府が天下をとっておりましたので、桐生は足利家とのかかわりの中から織物産地として発展することとなります。このことの証は桐生の豪族彦部家(足利家の一族)に伝わる幕府からの織物の注文書(1575年)が歴史的に証明しております。そして、天下分け目の関が原の合戦(慶長5年・1600年)に、徳川家康の籏布に新田義貞(徳川家の祖先といわれる)の旗揚げの由来で縁起の良い桐生絹が使われました。その数は2,410疋、これを1日で織ったというので、2,410台の織機があったという証になるという説もあります。ご存知のとおり徳川家康が大勝を果たし、江戸時代になると、その吉例から桐生の機屋は幕府に請願する文書に必ず「東照神君御在世之砌、御籏絹献上之御吉例御由緒之地」と前書きしたそうです。